最近朝によく駅前で、いつの選挙に向けてかは知りませんが、演説をするわけでもなく挨拶をしている人がいます。まずは認知度アップからという事なのでしょう。言う言葉はこの二つのみ。「○○(名前)です。」と「行ってらっしゃい。」おかげでまんまとその人の名前は覚えましたけど、私には良い印象を与えませんでした。外見をどうこう言うのは論外といえば論外ですが、演説するわけではないので、それも重要な要素になっても仕方の無いことでしょうが、外見は良くも無く悪くも無くといった感じで、それはさして問題ではありません。悪い印象だったのはしゃべり方です。なんだか、心がこもった感じがしないのですよね。ぶっきらぼうと言いますか、ただ同じ言葉を繰り返すオウムと言いますか・・・それに加え、毎回本当に上で述べた二つの言葉しか言わないので、それしかないのかよと言った気持ちも湧いてきたり・・・。私と同じように毎日のように見ている他の方にも聞いてみたいものです。あれは良い印象を与えますか、それとも悪い印象を与えますかと。
2006年11月21日(火) 01時56分
一応と一様
「一応やってみる」と「一様やってみる」どちらが言葉として正しいか。それはどう考えても前者でしょう。いつも友人が一応という意味で使っていると思われる言葉を「いちよう」と喋っていたので、その事が耳についていました。私はてっきり言葉が簡略化してそういう風に喋ってしまっているものだと思っていたのですが、今日のメールのやり取りではっきりしました。あんた使い方間違えてるよと。(笑) まあ私も面白いので指摘なんてしてやらないつもりですけどね。(嫌な奴だ…)
2006年11月20日(月) 10時11分
地球は廻り続けるよ、少なくとも私が死ぬまでは
何故だろう。やらなくちゃって思っても結局毎週同じような日々を送っている。実際思うだけで毎週やっていることが大して変わらないからだろうと思います。だから時間に終われる日がほぼ毎週あり、徹夜して・・・それはもう大変で嫌なこと。下手したら終わらないこともある。それでも、毎週それを繰り返してしまうのは心の片隅に「なんとかなる」という思いがあるからでしょう。そう、それは何年も前から。なんとかなったとしても、それは多くの場合において最善ではない。でも、「なんとかなった=問題なし」といつの間にか処理してしまう。
そんな私を数学の歴史を学ぶ授業の毎週出すレポートの返却で私が遠まわしに「凡人は天才にはかなわない。」というようなことを書いたところ(返却されてから自分でそんな風に思わせるように書いていることに気づきました)、先生はこう返事を書いた。「無邪気で幸せですね。」と。つまりは能天気だと。もちろんショックは受けましたが、反論の余地はなく素直に受け入れました。ボヤイ・ヤーノシュWが時間をかけて完成させた研究は20年以上も前にカール・フリードリヒ・ガウスWが既に考えていたことであった。それ知ったボヤイはショックに耐え切れず研究をやめてしまった。しかし、ガウスは誰もが認める天才であっても、ボヤイがそうでなくても、時間をかけた努力なしでは語れない。才能云々を語るならば極限の努力をしてからにしろというわけです。そして、そこで初めて才能というものが分かるものなのだと。
君は「努力」をしたことがあるか? 僕は申し訳なさそうに小さい声で答えよう。「努力をした自覚、記憶はありません。それゆえに才能があったとしてもそれに気づいていのだと思います。しかし、努力自体が才能だと言って片付けてしまうことは馬鹿げているだろうし、恐ろしいことだとは分かっているのです。」
っと、こんな阿呆な文章投稿するのは一体何度目だろ?(笑)
そんな私を数学の歴史を学ぶ授業の毎週出すレポートの返却で私が遠まわしに「凡人は天才にはかなわない。」というようなことを書いたところ(返却されてから自分でそんな風に思わせるように書いていることに気づきました)、先生はこう返事を書いた。「無邪気で幸せですね。」と。つまりは能天気だと。もちろんショックは受けましたが、反論の余地はなく素直に受け入れました。ボヤイ・ヤーノシュWが時間をかけて完成させた研究は20年以上も前にカール・フリードリヒ・ガウスWが既に考えていたことであった。それ知ったボヤイはショックに耐え切れず研究をやめてしまった。しかし、ガウスは誰もが認める天才であっても、ボヤイがそうでなくても、時間をかけた努力なしでは語れない。才能云々を語るならば極限の努力をしてからにしろというわけです。そして、そこで初めて才能というものが分かるものなのだと。
君は「努力」をしたことがあるか? 僕は申し訳なさそうに小さい声で答えよう。「努力をした自覚、記憶はありません。それゆえに才能があったとしてもそれに気づいていのだと思います。しかし、努力自体が才能だと言って片付けてしまうことは馬鹿げているだろうし、恐ろしいことだとは分かっているのです。」
っと、こんな阿呆な文章投稿するのは一体何度目だろ?(笑)
2006年11月19日(日) 02時24分
いろいろと
なんだか、ブログが全体的におかしいので今日、再インストールして直したいところ…。(外面上は普通だと思いますが) それと、新コンテンツとやらのサイトも公開したいなと。あ~今月中にドメインも取得したいな。でも、月曜にテストがあるから・・・ボソボソボソ・・・。
2006年11月17日(金) 17時31分
数の歴史
~あらすじ~
宇宙で最も普遍的な知と思われる数について、その歴史を丁寧に解き明かす。0の発見、負の数の使用、無限の考え方など、美しい絵や写真を豊富に掲載し、数と人々との関わりに迫る。
(Amazonより)
私の評価:



~感想~
この本を読んで数に対する考え方が変わりました。普段当たり前のように私たちは数と接していますが、今の形になるのに人類は何百、何千年?という月日がかかったこと、また同じように「0(零)」という数字にも発見、そして導入という過程があったこと、マイナス(負)の数が何百年も認められなかったことなど、様々なことが分かります。
私はもっとこの本に早く出会いたかったと思いました。そしてこういった数の歴史、数学の歴史などを学校の授業に取り入れて、ただそこに問題があるからやらなければならない。ではなく、なぜ数は生まれたのか、数が人類に与える影響などを知ることでいわゆる「理科離れ」といった現象も緩和されるのではないかと思いました。(ただの負け犬の遠吠えでしょうか^^; (笑))
しかし数は人類にとって恩恵があるばかりではなく現実世界で、たとえばお金であり、偏差値、であり、株価であり、登録番号であり、何でも数を与えてしまうことで精神的な貧困が進み、人間が数を操っているのではなく、逆に数に人間が操られてしまうのではないかという指摘をしていて、確かになぁとうなずきました。
とまあ為になる本だったのですが、私はどうもカントールとデデキントの無限(集合論)の話が理解できなかった^^; ちょうど情報数学で集合について授業を受けているだけに、これはいかんなと反省…。(いやまだそんなところまでやっていないかな)
あとは、本書を監修した最近ですとベストセラーになった国家の品格で有名な藤原正彦先生が数学者だったとはじめて知りました。その先生の新書の一部が最後に載っていてすごい共感したので紹介したいと思います。内容を簡単にまとめますと、
数学はどんどん新たなことを積み重ね、難しく、深く、進化している。そのため数学を勉強し始めて現在の先端に追いつくのにかなりの時間を要す。そのため昔は数学者のピークは20代と言われていたが、それがどんどん30代、40代…とずれてきている。これからもこのペースで進化していくと、先端に追いつき、新たなことを考えようとすることができるようになるときには50歳ぐらいになってしまうかもしれない。しかし、50歳の脳では新たな事を考えるにはきつい。そうなると、数学の進化が止まってしまうのではないか、そして数学の進化が止まれば、親戚である物理学、化学、そして工学と言ったように連鎖反応がおき、自然科学全体に危機が訪れるかもしれない。
と言った内容でした。(長くなってしまいましたね^^;)
実は私も同じような事を考えたことがあり、これを読んだときは驚いたのですが、私の場合は「ほんの百年前には私の専攻である電気自体が無かったわけだから私が100年前であれば、こんな勉強しなくて良かったのにな、でも逆に考えるとこの先勉強する人たちは、さらに技術が進化するわけだから勉強する内容が増えるのかな・・・それはそれで嫌だな。」と考えの重みは全然違うわけですけどね。(笑)
しかし、この事は現実味を帯びていて、ありえないことではないのかもしれません。
数の歴史 (「知の再発見」双書)
宇宙で最も普遍的な知と思われる数について、その歴史を丁寧に解き明かす。0の発見、負の数の使用、無限の考え方など、美しい絵や写真を豊富に掲載し、数と人々との関わりに迫る。
(Amazonより)
私の評価:





~感想~
この本を読んで数に対する考え方が変わりました。普段当たり前のように私たちは数と接していますが、今の形になるのに人類は何百、何千年?という月日がかかったこと、また同じように「0(零)」という数字にも発見、そして導入という過程があったこと、マイナス(負)の数が何百年も認められなかったことなど、様々なことが分かります。
私はもっとこの本に早く出会いたかったと思いました。そしてこういった数の歴史、数学の歴史などを学校の授業に取り入れて、ただそこに問題があるからやらなければならない。ではなく、なぜ数は生まれたのか、数が人類に与える影響などを知ることでいわゆる「理科離れ」といった現象も緩和されるのではないかと思いました。(ただの負け犬の遠吠えでしょうか^^; (笑))
しかし数は人類にとって恩恵があるばかりではなく現実世界で、たとえばお金であり、偏差値、であり、株価であり、登録番号であり、何でも数を与えてしまうことで精神的な貧困が進み、人間が数を操っているのではなく、逆に数に人間が操られてしまうのではないかという指摘をしていて、確かになぁとうなずきました。
とまあ為になる本だったのですが、私はどうもカントールとデデキントの無限(集合論)の話が理解できなかった^^; ちょうど情報数学で集合について授業を受けているだけに、これはいかんなと反省…。(いやまだそんなところまでやっていないかな)
あとは、本書を監修した最近ですとベストセラーになった国家の品格で有名な藤原正彦先生が数学者だったとはじめて知りました。その先生の新書の一部が最後に載っていてすごい共感したので紹介したいと思います。内容を簡単にまとめますと、
数学はどんどん新たなことを積み重ね、難しく、深く、進化している。そのため数学を勉強し始めて現在の先端に追いつくのにかなりの時間を要す。そのため昔は数学者のピークは20代と言われていたが、それがどんどん30代、40代…とずれてきている。これからもこのペースで進化していくと、先端に追いつき、新たなことを考えようとすることができるようになるときには50歳ぐらいになってしまうかもしれない。しかし、50歳の脳では新たな事を考えるにはきつい。そうなると、数学の進化が止まってしまうのではないか、そして数学の進化が止まれば、親戚である物理学、化学、そして工学と言ったように連鎖反応がおき、自然科学全体に危機が訪れるかもしれない。
と言った内容でした。(長くなってしまいましたね^^;)
実は私も同じような事を考えたことがあり、これを読んだときは驚いたのですが、私の場合は「ほんの百年前には私の専攻である電気自体が無かったわけだから私が100年前であれば、こんな勉強しなくて良かったのにな、でも逆に考えるとこの先勉強する人たちは、さらに技術が進化するわけだから勉強する内容が増えるのかな・・・それはそれで嫌だな。」と考えの重みは全然違うわけですけどね。(笑)
しかし、この事は現実味を帯びていて、ありえないことではないのかもしれません。
数の歴史 (「知の再発見」双書)

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