さあ、あなたはダイヤと言う言葉を聞いて何を思い浮かべますか?
今日帰りの電車で座っていてふと顔を上げたところ、男子中学生が雑誌を読んでいて、丁度雑誌のタイトルが全て見えず、ダイヤ情報と言う文字だけが見えました。私は目が合うのが嫌なので、すぐに顔を下げて考えました。「ダイヤモンドの専門雑誌を読むなんてこいつ只者じゃないっ!!!」と。そして、気になりもう一度顔を上げたところ、今度は雑誌の全てのタイトルが目に入りました。鉄道ダイヤ情報 と。(笑)
ああ、ダイヤグラムの方ですか・・・。
でも、よくよく考えるとダイヤ情報眺めるのって果たして楽しいものなのかと思い、調べてみたところさすがにダイヤ情報だけではなく鉄道関連の情報が載っているようで、その中に甲種回送 なんてものの情報がありびっくり。今度具体的にどんなものが乗っているのか少し立ち読みしてみたくなりました。
2006年11月26日(日) 21時29分
携帯ストラップ届きました。
先月話した Firefoxの携帯ストラップが届きましたので報告。かっこいいです。
しかし、私のD901iと言う携帯は正直言ってストラップをつけると写真がとりにくくなったり邪魔なのでつけていません。そのためこのストラップをどうしようかなと思っています。いくら非売品と言っても何十年とっておいて価値の出るものには思えませんからね…。でも、私としてはFirefoxの携帯ストラップなんだぞ!いいだろ!と自慢したいと言うのもあるのですが、私の周りではFirefox知らない人ばかりで珍しいもあったものではありません。(笑)
しかし、私のD901iと言う携帯は正直言ってストラップをつけると写真がとりにくくなったり邪魔なのでつけていません。そのためこのストラップをどうしようかなと思っています。いくら非売品と言っても何十年とっておいて価値の出るものには思えませんからね…。でも、私としてはFirefoxの携帯ストラップなんだぞ!いいだろ!と自慢したいと言うのもあるのですが、私の周りではFirefox知らない人ばかりで珍しいもあったものではありません。(笑)
2006年11月24日(金) 11時09分
朝の挨拶
最近朝によく駅前で、いつの選挙に向けてかは知りませんが、演説をするわけでもなく挨拶をしている人がいます。まずは認知度アップからという事なのでしょう。言う言葉はこの二つのみ。「○○(名前)です。」と「行ってらっしゃい。」おかげでまんまとその人の名前は覚えましたけど、私には良い印象を与えませんでした。外見をどうこう言うのは論外といえば論外ですが、演説するわけではないので、それも重要な要素になっても仕方の無いことでしょうが、外見は良くも無く悪くも無くといった感じで、それはさして問題ではありません。悪い印象だったのはしゃべり方です。なんだか、心がこもった感じがしないのですよね。ぶっきらぼうと言いますか、ただ同じ言葉を繰り返すオウムと言いますか・・・それに加え、毎回本当に上で述べた二つの言葉しか言わないので、それしかないのかよと言った気持ちも湧いてきたり・・・。私と同じように毎日のように見ている他の方にも聞いてみたいものです。あれは良い印象を与えますか、それとも悪い印象を与えますかと。
2006年11月21日(火) 01時56分
一応と一様
「一応やってみる」と「一様やってみる」どちらが言葉として正しいか。それはどう考えても前者でしょう。いつも友人が一応という意味で使っていると思われる言葉を「いちよう」と喋っていたので、その事が耳についていました。私はてっきり言葉が簡略化してそういう風に喋ってしまっているものだと思っていたのですが、今日のメールのやり取りではっきりしました。あんた使い方間違えてるよと。(笑) まあ私も面白いので指摘なんてしてやらないつもりですけどね。(嫌な奴だ…)
2006年11月20日(月) 10時11分
地球は廻り続けるよ、少なくとも私が死ぬまでは
何故だろう。やらなくちゃって思っても結局毎週同じような日々を送っている。実際思うだけで毎週やっていることが大して変わらないからだろうと思います。だから時間に終われる日がほぼ毎週あり、徹夜して・・・それはもう大変で嫌なこと。下手したら終わらないこともある。それでも、毎週それを繰り返してしまうのは心の片隅に「なんとかなる」という思いがあるからでしょう。そう、それは何年も前から。なんとかなったとしても、それは多くの場合において最善ではない。でも、「なんとかなった=問題なし」といつの間にか処理してしまう。
そんな私を数学の歴史を学ぶ授業の毎週出すレポートの返却で私が遠まわしに「凡人は天才にはかなわない。」というようなことを書いたところ(返却されてから自分でそんな風に思わせるように書いていることに気づきました)、先生はこう返事を書いた。「無邪気で幸せですね。」と。つまりは能天気だと。もちろんショックは受けましたが、反論の余地はなく素直に受け入れました。ボヤイ・ヤーノシュWが時間をかけて完成させた研究は20年以上も前にカール・フリードリヒ・ガウスWが既に考えていたことであった。それ知ったボヤイはショックに耐え切れず研究をやめてしまった。しかし、ガウスは誰もが認める天才であっても、ボヤイがそうでなくても、時間をかけた努力なしでは語れない。才能云々を語るならば極限の努力をしてからにしろというわけです。そして、そこで初めて才能というものが分かるものなのだと。
君は「努力」をしたことがあるか? 僕は申し訳なさそうに小さい声で答えよう。「努力をした自覚、記憶はありません。それゆえに才能があったとしてもそれに気づいていのだと思います。しかし、努力自体が才能だと言って片付けてしまうことは馬鹿げているだろうし、恐ろしいことだとは分かっているのです。」
っと、こんな阿呆な文章投稿するのは一体何度目だろ?(笑)
そんな私を数学の歴史を学ぶ授業の毎週出すレポートの返却で私が遠まわしに「凡人は天才にはかなわない。」というようなことを書いたところ(返却されてから自分でそんな風に思わせるように書いていることに気づきました)、先生はこう返事を書いた。「無邪気で幸せですね。」と。つまりは能天気だと。もちろんショックは受けましたが、反論の余地はなく素直に受け入れました。ボヤイ・ヤーノシュWが時間をかけて完成させた研究は20年以上も前にカール・フリードリヒ・ガウスWが既に考えていたことであった。それ知ったボヤイはショックに耐え切れず研究をやめてしまった。しかし、ガウスは誰もが認める天才であっても、ボヤイがそうでなくても、時間をかけた努力なしでは語れない。才能云々を語るならば極限の努力をしてからにしろというわけです。そして、そこで初めて才能というものが分かるものなのだと。
君は「努力」をしたことがあるか? 僕は申し訳なさそうに小さい声で答えよう。「努力をした自覚、記憶はありません。それゆえに才能があったとしてもそれに気づいていのだと思います。しかし、努力自体が才能だと言って片付けてしまうことは馬鹿げているだろうし、恐ろしいことだとは分かっているのです。」
っと、こんな阿呆な文章投稿するのは一体何度目だろ?(笑)
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